断片の旅

中谷至宏(成安造形大学 教授)

 旅の始まりは最近作《画集の樹、木の画集》に刷られたA. ヴォラール著『セザンヌ』とJ. マイアー=グレーフェ著『セザンヌとその時代』の表紙イメージ。前者は1940年、後者は1943年刊の訳書だが、ちょうどこの間の年代が横書き文字の方向が右→左から左→右に変わり始めた時期であったことを示している。またこれらの原書は後者が1913年、前者が1919年の刊行で、いずれも洋画家須田国太郎の蔵書に含まれ、画家が大きな影響を受けたと見做せる、当時画商A. ヴォラールが所蔵していた《ガルダンヌ風景》の図版が双方に掲載されていたこと。さらに刷られたイメージに導かれて自分の蔵書中の同書のページを繰ると、一方は神戸三宮にかつてあった古書店、もう一方は大阪梅田の古書店で40年以上前に買い求めたことがわかる。これら私にとっての史的で私的な記憶の連鎖という旅は、書物という存在の中核を為す文章には踏み込んではおらず、いずれも文字や図版や数字、あるいはシールといった表層的な要素に導かれて進んで行く。これら取り留めもない記憶のかけらは、連なり絡み合いながら拡がりを見せるが、日本語表記法の歴史と古書店の香りの記憶が何等の関係も持たないように、一連のかけら同志が繋がることはない。
 私が長尾浩幸氏の作品を始めて目にしたのは1988年のことだったのではないかと思い起こされる。記憶に残るのは、《Carving Image》と題された鋳造による形象のかけらの拡がりである。銅板に刻まれた凹凸による線の連なりやリトグラフによって置換された描線のフォルムが、標高10mmの峰が連なる小さな山脈として厚みを得て立ち上がり、壁面に場所を得る。描線から壁の塊りへの過程も一つの旅だが、厚みを持ったかけらが相互のかたちの関係を保ちながら固有の距離感をもって対峙する様も、視線の旅を促すものである。
 版画技法による平面上のイメージ生成から「型取りされた」立体的な形象へと、「版」という技法、構造を基盤として展開した《Carving Image》は、同時代には「版」へと還元し「版」から展開するものとして「版」という文脈抜きには眺められないものであった。また私は10年ほど前、このかけらの振る舞いをPC上のデータの断片化を是正するデフラグ処理に例えて、デジタル空間での断片がふさわしい間隙を探して移動する様態を、見る私たちが断片相互の関係を見出し関連付ける過程に重ね合わせたことがある(「デフラグの手触り」長尾浩幸 works 1985-1989展リーフレット)。
今あらためて《Carving Image》のかけらの形を思う時、断片化を解消すべく求心的に結合を求めるのではなく、のびやかなかけらの飛翔として、かけらからかけらへと渡り歩く視線の旅の享楽に浸りたく思える。コンテクストへの布置は歴史化作業として措いた上で、コンテクスト抜きに旅すること。テクストを欠いた『セザンヌ』の文字から始まった、すき間だらけの記憶の断片を経巡る旅は、初見から長い時間が経過した私一人の特権であるはずがなく、今初めて目にする人々をも魅了するに違いない。