デフラグの手触り

中谷至宏
(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭事務局キュレーター)

コンピュータのハードディスクのアクセス速度を速めるデフラグ処理。処理の過程など見る必要もないのに、意味もなくついしばらく処理の進行を眺めてしまう。断片化されたファイルが次第に統合されてゆく「整頓」の快感もあるものの、離散した部分同士の不可視な連関がうごめく空間にしばし目が括りつけられてしまう。de-fragmentation=反・断片化のプロセスは、すでに在る断片が躍動する過程のようにも思える。もとよりファイルの断片化は、書き込みの連続では生じず、削除と書き込みを繰り返すなかで発生するものに違いない。
削除という否定を介しながら、互いの連関を宿した部分の偏在。かたちの断片を壁面に布置した長尾浩幸の80年代の作品〈Carving Image〉のシリーズは、断片化されたファイルの拡がりになぞらえることもできるだろう。そしてそれを見る私たちの行為は、宿された繋がりを見出し統合しようとするデフラグメンテーションのプロセスなのかも知れない。このようなプロセスを導き出すのは、彼がかたちの生成を「版」という契機を介して、一度客体化した後に見出すという過程に委ねているからに他ならない。

筆者は1989年の秋に京都市美術館の特別展として「版から/版へ -京都1989-」を企画し、出品者17人中の一人として長尾浩幸に出品を依頼した。その時からすでに四半世紀も経過したという実感はないのだが、当時まだPCは使用しておらず、ワープロ専用機付属の描画ソフトで展示プランの平面図を作成していたのを思い出す。それゆえ、ファイルの断片化というアナロジーを当時見出せるわけもなかった。だが今それを持ち出したくなるのは、彼の作品がデジタルで間接的な像の生成と増殖を先取りした軽やかさを保持していたからかもしれないが、軽やかさと同時に、散らばる断片が今でも無意味な凝視を誘う因子を備えているからでもあるだろう。手書きからワープロに移行する過渡期に感じた微妙な違和感。言わばデジタルなものの手触りが、懐旧的な感覚を超えてデジタルな空間の本質的構造を体感させるものとしてそこにあるように思えるのである。
明治20年代、つまり1890年代に日本の画家は、紙や絹の上の絵画であっても額装すれば国際的に「美術」と位置づけられるという作法を身に付けた。約100年後の1980年代には、逆に額装から脱して展示空間に拡散することで「現代美術」と認識され得るという作法が浸透していたようにも思える。長尾の80年代中盤のフレームからの逸脱への方向は、この作法の獲得に苛まれた所作であるにちがいない。「版から/版へ -京都1989-」で、額装作品を意図して出品作品に含めたのは、この作法の浸透の必然を認識した上で、それとは別の位相で版という表現構造の潜在力を確認したかったからに他ならない。

長尾はフレームからの逸脱の過程で、平板な断片から、厚み10ミリにこだわりながらも、鋳造された=型取りされた立体的な断片に移行した。版を介した形象が、型を通して実体化する二重の版構造。そのタイトルとしては〈Carving Image〉よりも〈Casting Image〉がふさわしいのではないかと感じていた。だが今デフラグメンテーションへの誘引をなすのは、二重の版構造の狭間に介入する塑造の手触りなのではないかと思える。この厚み10ミリの起伏が、作法獲得への渇望と逡巡の交錯という「歴史」を体現しつつ、途上の躍動に視線を導くのである。
四半世紀を過ぎた今、語られたものや語り得るものを表象しうるものこそ大芸術であり、現代美術であらんとする新たな作法が浸透しつつあるように思える。もちろんここでも作法の必然とリアリティーを否定するものではないが、作法に対峙する強靭さとともに、作法への逡巡に紛れ込む、或る破綻のリアリティーにも目を向ける必要があるように思えるのである。